東急目黒線全13駅 MG02不動前駅:育んだものと“四苦八苦”をともに 良いものは吸収、良くないものは反面教師

不動前駅(ふどうまええき)は、東京都品川区西五反田五丁目にある東急電鉄目黒線の駅である。駅番号はMG02。

駅名の由来 
目黒不動尊として知られる瀧泉寺の最寄り駅として設置されたことに由来する。

「目黒不動前駅」からすぐに「不動前駅」に変更されているが、この近辺では目黒不動のことを「お不動さん」と言われていたことに着目した目黒蒲田電鉄専務取締役の五島慶太は、当駅が目黒不動への一番の最寄り駅であることをアピールするため、あえて紛らわしい「目黒」を抜いて「不動前駅」にして集客を増やしたとされる。

当駅から目黒不動尊までは約650m離れている(徒歩15分[13])。目黒不動尊は目黒区に位置するが、当駅は品川区にあるため、途中で区境を跨ぐこととなる。

不動前駅 - Wikipedia 

育んだものと“四苦八苦”をともに

“ヒトモノコト”の良い部分を真似る

 自分自身に悪影響を与えるものをゆるす必要はない。

 そういった“ヒトモノコト”に悪影響を受けてまで、許すことを寛容さとは言わないのだと、考えている。やはり、これも“ギフト”の話なのだと考えている。“反面教師”に出来るかいないか。“毒”を“薬”に変えられるか否か。“偽薬”を“薬”に変えられるか否か。

 また、悪影響を受けてまでも、そう言った“ヒトモノコト”とともにできるか否か、と考えている。自身を育んだものと、“喜怒哀楽”、または“四苦八苦”をそれらとともにできるか否か、と考えている。そういった事を、ともにできるのか、と考えている。

 

四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。

根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし

生…生きていること自体肉体的精神的苦痛が伴う。
老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。
根本的な四つの苦に加え、

愛別離苦(あいべつりく)  … 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく)  … 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)   … 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) … 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。

四苦八苦 - Wikipedia

良いものは吸収、良くないものは反面教師

 悪影響を与える“ヒトモノコト”の、悪い部分を真似る必要は無い。それは、反面教師とすればよいのだと考えている。

 逆に、良い部分は真似てゆけば良いのだし、“ヒトモノコト”の良い部分を真似、自身のものとしてゆけば良いのだと考えている。悪い部分は反面教師とし、良い部分は教師として学ぶ。

 それは、個人だけの問題ではないのだと考えている。家や国でも同様のことと言える。できる限り良い“ヒトモノコト”を受け入れ、悪い影響を与えるものなら、受け入れないか、もしくは“反面教師”とする。 

 良い影響なら、どん欲に吸収し、自分のものとする。良い影響を与えてくれる人なら、真似る。自分のものとする。悪い影響なら、受け入れないか、“反面教師”とする。

 これらの事を繰り返すことにより、良し悪しが自然と身につくのだと考えている。教わるでもなく、身につくものだと個人的には考えている。良いものを、素直に受け入れる。悪いものを、できる限り拒む。

 

反面教師(はんめんきょうし)とは、反省の材料となるような人や事例を指す。中国共産党中央委員会主席の毛沢東により発案された言葉で、中国語の原語では「反面教员」である。

日本の似たような諺に「人のふり見て我がふり直せ」というものがあり、日本でも一般にはその意味で慣用される語句になっているが、毛沢東の原典ではさらに詳細な意図が語られている。「絶対に真似したくない」と思わせる教育方法を指すこともある。

反面教師 - Wikipedia

“うちはうち、よそはよそ”という考え

 たとえば、“うちはうち、よそはよそ”という考え方がある。個人的には、それでよいのだと考えている。

 家でもそうかも知れないし、国でもそうなのだろうと考えている。もちろん、“よそ”の良い部分は、貪欲に影響を受け、真似ていく必要があるが、家柄、国柄を無視してまで影響を受けていく必要があるのかと、考えている。

 一見良さそうに見えるかもしれないが、ウチには合ってなかった、ということがあるのだろうと思う。

 個人で考えても、一見良さそうに見えた“ヒトモノコト”だったが、受け入れてみればば“あんがい”だったとか。逆に、一見“それほどでも”な感じだった“ヒトモノコト”が、“じつは”なケースもあるのだろうと思う。

 また、悪い部分は、“うちはうち、よそはよそ”でキッパリと受け付けない事をしていった方が良いように思う。誤魔化すために、“よそ”の悪い部分を受け入れていくことが良いことにはならないのだと考えている。悪い部分は、キッパリと“うちはうち、よそはよそ”としていかなければ、ならないのだと考えている。

良い部分も、悪い部分も、伝播させてこそ

 ここまでは、“外から内”の影響の話。

 “内から外”への影響に関しては、良い部分も、悪い部分も、兎にも角にも、影響を与えてこそと考えている。伝播させてこそ。文化を伝播させてこそ。

 良し悪しを評価するのは、自分自身ではない為、評価は千差万別。それは、対象が幅広くなればなるほど、評価は分かれるので、良いも悪いも無いのだと考えている。

 もちろん、卑怯はいけないのだし、人を貶めるような嘘も良くないのだろうと考えているが、対象が幅広くなるほど、思いもよらぬところで人を苦しめていたりもするから判断が難しい。ただ、いずれにしても、外からは良い影響。外へは、良し悪し双方を伝播させてこそと考えている。